今読んでいる新書、「日本農業への正しい絶望法」神門善久著に、昨日のblogでのマクドのマニュアル化と、【舞】と同じく身体性が求められる、農業の職人について解りやすい考察がありました。
言い換えれば、マニュアルとしての「技術」と「技能」の考察です。
マニュアル化出来たから、グローバル化で、海外に工場を作れてしまった今の脆弱な日本の物作りとも、関連性が出てきていることになります。
日本でデフレの中でも生き残っている、製造業は、間違いなく「技能」だからです。
一部分をはしょりながら、取り出してみましょう。

「技術」と「技能」の違いを一口で言えば、マニュアル化出来るかだ。
マニュアルといって多くの人が思い浮かべるのは、電気製品を買うとついてくる、使い方が細かく書いてある冊子だろう。
マニュアル通りに操作すれば、製品の仕組みについての特段の知識がなくても、必ずその製品は予定された機能を発揮する(さもなくば不良品だ)。
同じことが近代の工場労働でも言える。
労働者には手順が微に入り細に入り徹底的にマニュアルとして示され、マニュアルに沿って作業すれば、製品を作ることができる。労働者には、独自の判断や行動は不要でマニュアルに忠実に働けばよい。新たな技術が生まれたり、問題が発生すると、マニュアルを変更すればよい。

  この部分は僕が思うに、苛めに対処する、学校側の会見にも色濃く現れていると思うので   す。原発の東電での会見もしかりです。責任の所在がないまま暴走している。
  だから想定外の事が起きたときに対処出来ない。
  マクド型マニュアル化で日々気づかないうちに、育てられている我々は、想定外の事を意識  することを無意識にしておくことに慣らされてしまったのです。
  伊豆に住んだ理由は、以前申し上げたように、東京に電力供給するために作られた、浜岡原  発の実態を知りたいこと、その上でどのように自分も生き方を変えるかでした。
  ですから、オーム心理教の事件の時に中沢伸一さんが仰られたように、オームの種が自分達  にあり、それを発見して修正出来るかだと、僕は思うのです。
  水道水の現状や、海外のみに開かれている伏流水販売、その命に関わる【水】をどうにかし  なくてはならないとか、その為にもマクド型人間の改造が必要であるとワークを改良し続け  ているのも、その思想根底からの変革が必要だからです。
  先ずは、自分の食いぶちの変革だと思って今生きています。
  何故ならワークは、術になりやすい、その方が教えやすい。
  だから昔は、自分も人体取り扱い説明書的なワークとよんでいました
  けれどもそれでは確実に抜け落ちるから【マクロ人間学講座】に変革し始めたのです。
  たかが【舞】されど【舞】で其処を実践出来なければ、自分の食いぶちの仕事では、利権が  かかわり、そうそう実行できない筈です。
  本当は其処を実行に移さなければ、日本は沈みます。
  自分が利権と関わらないで済み、本気で好きなものをツールに、先ずは本気で向き合うべき  だと僕は思うのです。それが【祭】なら、それに本気で向き合いましょう。
  「芸術」から「芸能」への回帰です。
  どちらかというと芸術は高尚で、芸能は低くとらえているはずですが、「技術」と「技    能」で捉えるならば、実は全く逆です。

大量生産の工場と対極をなすのが町工場だ。町工場では、大まかな方針はあるが、常に臨機応変に判断し行動しなくてはならない。この対応力が「技能」。
「技能」は、たぶん職人技であり、科学知識とともに、試行錯誤の経験によって個人的に獲得しなければならない。マニュアル化された技術とマニュアル化出来ない技能という対比は、お手軽パック寿司と板前が作る寿司という対比に、なぞらえることができる。
特に料理の修行をしていない労働者でも、マニュアルに沿って作ることが出来る。
機器や添加物等の薬品を使うことで、素人の労働者でも、それなりの味を有するパック寿司を作れてしまう。
しかし板前は、ゴミだし、食器洗いなど、直接寿司を握る作業と関係しない作業から修行が始まり、給料も安く、親方にこき使われながら、【寿司とは何か】を体得する。
此れはどちらが正しいとか正しくないかではなく、「技術」と「技能」は目的に応じて選択すればよいのである。日常で沢山食べたいときは、技術のパック寿司、たまの贅沢で本物を頂きたいなら技能の板前が握る寿司と。

  僕は、【祭】や【舞】を日常沢山味わいたいものですかと問いたいのです。
  勿論先ずは自分にです。
  もともと自然相手に生まれた【祭】や【舞】が技術では、津波にのまれた原発と同じではな  いかと問いたいのです。
  以前からそのようにワークでも、皆さんにも突きつけてきましたが、今自然の更なる驚異の  前で、技術信奉は、一度引っ込める時期に入っているのではないかと思っているのです。
  今日からのお題目は、自分にとっても核心部への旅ですので、何回かに渡って記していきた  いと思っているのです。

製造業のケースを踏まえて、農業の場合で考えてみよう。
農業は人間にとって有用な動植物を飼育栽培する行為だ。人間の管理が悪くても悪いなりには育つ。しかし、動植物を健康に育てるのは難しい。
自然という人間の想定外の環境のもとで、的確な判断によって健康的に動植物を育てさせる能力こそが農業における「技能」だ。

 先ずは自分を健康に育てられない我々が、他者の動植物を健康に育てられるはずがないという 事です。そして健康ってなにかという問いです。
 ここからが人間という自然なモノが、自然の体を使って動く【舞】と深く関係していると思う 本題への入り口です。
 例えば、健康になりたいセミナーは巷に溢れています。
 では、其は何のため?誰のため?何を知るため?
 勿論自然界の仕組みを己の体でつかむためでは、ないでしょうか?
 自分の育てかたが【技能】になっておらず、マニュアル化した情報を張り付ける【技術】の  パッチワークになっているとしたら、緊急時での身体の底力を体験して忘れないようにと配置 された【祭】も【健康になりたい私たち】も、随分と軟弱なものになってしまったと感じるの です。
  



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